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第1章
シャル・ウィ・ダンス?




♪    Amazing grace, how sweet the sound,
That saved a wretch like me.



甘い香りと共に、優しい歌声が流れていた。
それに気付いたとき、タクトは思わず足を止めていた。



♪  I once was lost, but now I'm found,
Was blind but now I see.



不思議な幻想を見たような気がした。
心待ちにしていた瞬間がやってきたような、思い焦がれていた場所にたどり着けたよう な――――。
そんな、えもいわれぬ歓喜で心が満たされる。
自分が立っているのは、そんな感情とは縁もゆかりも無い、無機質な艦内の廊下だという のに。

「はい、かわいいアップルパイの出来上がり〜。よくできました、ぱちぱちぱち」

だが、その幻想は、能天気な少女の声で一瞬にして霧散した。
タクトは我に返る。
声は、行く手の脇にある開きっ放しのドアの奥から聞こえてきていた。

「あれ、どこまで歌ったっけ? まあいいか、んじゃ最初から〜」

とても先ほどまでの慈愛に満ちた歌声と同一のものとは思えない、舌っ足らずな幼い声。
タクトは苦笑して歩を進め、入り口に立って部屋の中へと呼びかける。

「ミルフィー、外まで聞こえてるよ」
「♪ あ〜め〜、じ〜んわひゃ!?」


どんがらがっしゃん


悲鳴と共に、賑やかな音がした。
なんか「うぎゅうぅ〜〜......」とか、まるで驚いた拍子に振り回した手が柱に当 たり
棚の上にあった大きな鍋が 落ちてきて頭を強打した時のような、苦悶のうめき声が聞こえてくる。
そう、あたかもそ んな風な。
そして奥から、バタバタしながら部屋の主が姿を現した。

「た、た、タクトさんっ! 女の子の部屋をノックもしないで開けるなんてどういうこと ですかっ!」

淡い桜色の髪。それをまとめる夏咲天竺葵(ベラゴニウム)を模した飾りつきのカチュー シャ。
ちょっと凛々しいオーダーメイドの軍服と、それを隠す、全然凛々しくないマスコット柄 のエプロン。
ミルフィーユ・桜葉。
この儀礼艦エルシオールを守る最強の紋章機編隊・エンジェル隊の撃墜王にして、そのエ ンジェル隊のごはん係。

「......なんか、事実だけどすごく失礼なこと考えてませんか?」
「......いや? 別に」

なんで分かったんだろう。
内心で驚きながらもポーカーフェイスを保って、澄まして答える。
彼女はしばらく疑惑の眼差しでこっちを見ていたが、途中で思い出したようにハッとなっ て再び肩を怒らせる。

「それよりタクトさんっ! どういうことなんですかっ!」
「何が?」
「だから、女の子の部屋をノックもなしに開けるなんて、デリカシーがアレだと思わない んですか!」
「......いや、このドア、最初から開いてたんだけど」

事実をそのまま伝える。 すると彼女は一瞬、キョトンとする。
そして次の瞬間には、耳まで真っ赤になって叫んできた。

「う、う、嘘ですっ!」

いきなりウソ呼ばわりである。
激しくどもりながら、腕をブンブン振り回している。
釈然としないものはあるが、彼女の見事なまでの狼狽っぷりに思わず、暖かく見守る目を してしまう。
ああ、達観。
俗世のしがらみから解脱した在野賢者の境地だ。

「いや、100パーセント本当。残念だけど」
「嘘です、嘘でもいいから嘘だって言ってください! 嘘な嘘の方が、本当の嘘よ り......あ、あれ? 嘘の嘘は本当 になっちゃうから、えっと......」

自爆した様子。
言葉の迷路に迷い込み、苦悩する様が哀れを誘う。
あまりの不憫さに、タクトは同情の余り肯いていた。

「分かった、じゃあウソ」
「ぜんっぜんウソっぽくないです! 『じゃあ』は無し! もっとこう、『騙される方が 間抜けなんだ馬鹿め』みたいに!」

うろたえてるくせに、注文の多い娘である。
しかしそこは自他共に認めるフェミニストのタクト・マイヤーズ。
咳払いをひとつして仕切り直し、邪悪な笑みを浮かべて見せる。

「ふはははは、ひっかかりおったな! 愚かなりミルフィーユ桜葉! 貴様はもはや、我 が術の虜よ!」
「そ、そう! そんな感じです! ひどい、信じてたのにタクトさん、そんな人だったん ですね! あの時の優しさも、あの日 の約束も、みんなみんな嘘だったんですね!」

もう何が何やら。
時代劇調で悪ノリするタクトに、太古の昼メロちっくに煽るミルフィーユ。
悪夢のようなノリだけの暴走コントはしばらく続き、お互い持ちネタが尽きたところで、 ようやく終息を迎えた。

「はぁはぁはぁ......あ、ありがとうございました、タクトさん......」
「ぜぇぜぇぜぇ......れ、礼にはおよばないよ、ミルフィー......」
「良かったら、上がって、お茶でもどうですか? おいしい、ハーブティー、 が......」
「喜んで。休憩したいと、思ってたところ......」

2人はヨロヨロと、完走後のマラソンランナーのような足取りで、部屋へと入っていっ た。
今度はタクトが、きちんとドアを閉めて。





テーブルの上に、かわいい包装紙でラッピングされた箱が所狭しと並べられていた。
個室にしつらえてあるテーブルだから、決して大きくはない。
しかしリビングとキッチン 両方のテーブルを埋め尽くすほどの数量 となると、決して少なくはない事が分かってもらえるはずだ。

「......ミルフィー、これ、何?」

必然的に尋ねることになる。 彼女の答えは簡潔だった。

「アップルパイです」

知っている。その良い匂いが廊下にまで漂ってきていたし、
さっき彼女自身が「かわいい アップルパイの出来上がり〜」と独り言 を言っているのを聞いてもいた。

「いや、そうじゃなくて。何でこんなにたくさん? ラッピングまでして」
「プレゼントですからね」

所望の回答を得られないのは、こちらの訊き方が悪いのだろうか?

「たくさんあるからって、つまみ食いしちゃダメですよー。こっちにまだあるから、安心 して下さい」
「いや、だからそうじゃなくて」
「もうすぐお茶も入りますから、座ってて下さいね」
「............」

結局、おとなしく座った。
仕方が無い、もっと理路整然と質問するとしよう。
彼女は言葉どおり、それからすぐにお茶とアップルパイを盆に乗せて戻ってきた。

「はいどーぞ、タクトさん」
「......いただきます」

据え膳食わぬは男の恥。
ちょっと違うか。
タクトは勧められるまま、アップルパイを口にした。

「あ......うまい」

お世辞ではなく、自然と感想が洩れた。
適度な焦げ目。
サクサクと歯ごたえよく焼き上がった生地に、絶妙な甘さ加減のアップル ジャム。
彼女がお菓子作りに関して玄人はだしの腕前である事は知っていたが、このアップルパイ もまた絶品だった。

「えへへへー、今度こそ自信作なんですよー」

彼女は嬉しそうに顔をほころばせる。
変なこと言うな?
とタクトは不思議に思った。

「今度こそ?」

前に失敗でもしたのだろうか。
でもミルフィーユが、お菓子作りで?
いや、そりゃたま には失敗もするだろうけど...... そう思いつつ訊いてみるが。

「やっぱり基本はアップルパイです。行き詰まったら基本で勝負です」

聞いちゃいなかった。 タクトはめげずに、気を取り直す。

「で、ミルフィー。なんだってまた、こんなにたくさんアップルパイを? プレゼントっ て、誰に?」
「整備班のみなさんにです」

何の屈託もなく答えるミルフィーユ。
ようやく得られた所望の答えだったが、それを聞いたタクトは一瞬、言葉に詰まった。
なるほど、整備班への差し入れなのか。
それでこの数量も納得がいった。
大変な手間だったろうに、わざわざ全員分を用意するところが彼女らしい。
だけど......よりによって整備班へか。

「最近、出撃が多いじゃないですか。私達は飛び出して行って、帰って来たらそのまんま シャワーに直行です。
でもよく考えてみ たら、私達がシャワーを浴びてスッキリしてる間に、整備班の人達は汗だくになって紋章 機を整備してくれてるんですよね。
そし てまた出撃、私達はすっかり綺麗になった機体に乗って飛び出していくだけ...... なんだか、申し訳ないなぁ、って思ったんです」
「......だから、差し入れを?」
「日頃の感謝を込めて――――って言えるほど、大した物じゃないんですけどね」

照れたように笑うミルフィーユ。
その笑顔に、タクトは胃が締め上げられるような錯覚を覚え、思わず手で胸を押さえた。
気取られてはならないと、辛うじて笑い返し、肯いて見せる。

「きっとみんな、喜ぶよ。こんなにおいしいんだから」
「そう思いますか? えへへ、やっぱりそうかなぁ? 私、いままでお菓子作りの中で アップルパイが一番作った回数が多くて、 だから自信も一番あるんです」

限界だった。
これ以上、とても笑顔を保つ自信が無い。
追い詰められたタクトは、話題転換を試みた。

「と、ところでミルフィー!」
「はい?」

声が裏返ってしまった。
わざとらしくなってしまったかと危惧するが、彼女は特に気付いた風もなく、ニコニコし たままのんびりと首をかしげる。
内心でホッと胸をなでおろし、続ける。

「さっきの歌なんだけど――――」
「わーーー! わーーー! わーーーーーっ!!」

と思ったら、続けられなかった。
途端に彼女が顔を真っ赤にして、意味不明な大声で遮ってきたのだ。

「あ、あれはもういいんです! 忘れてください、忘却の彼方に押しやっちゃってくださ い! タクトさん、夢でも見たんですよ! 俗に言う夢オチです!」
「いや、オチてないオチてない」

またしても激しい狼狽っぷりを披露するミルフィーユ。
冷静にツッコんでやるものの、彼女がそこまでうろたえる理由がさっぱり分からなかっ た。
いつもだったら、歌なんてこちらが放っておいても、そこらじゅうで歌ってるくせに。

「タクトさん、本当にさっきの歌、外まで聞こえてたんですか......?」
「ギンギンに」
「わーん!」

彼女はいきなり立ち上がり、奥へと駆け込んで行った。
かと思ったら、どこから引っ張り出して来たのか、大きなトランクを引きずって戻ってく る。
そして呆然としているタクトの前で、手当たり次第に物を詰め込み始めた。

「ち、ちょっとミルフィー、何してるの」
「旅に出ます、止めないで下さい!」
「ええっ? 旅ってどこに! 艦内でどうやって旅に出るっての!?」
「放してくださいタクトさん、私もうここには居られません!」
「ちょっと落ちついて! って、座布団なんか詰めて何に使うの!」

わーわーぎゃーぎゃー 2人してわめく。
暴れる。
やかんが宙を舞い、おたまがへし折れる。まるで子供の大騒ぎ。
さっきも同じような事をしたはずなのだが、懲りない2人である。
そしてその騒ぎは、やっぱりお互いに体力気力を使い果たしてから、ようやく収まる。

「......タクトさん、嫌い......」
「......いや、オレのせいなの......?」
2人とも床にへたりこみ、荒い息をはく。
室内は散々たるありさまだった。まるで部屋の中で竜巻でも起こったかのような。
自分達でやった事とはいえ、自己嫌悪も相まって陰鬱な気分になる。
そんな気分を振り払おうとするかのように、やがて2人は のろのろと立ち上がり、後片付けを始める。

「ミルフィー、歌なんていつも歌ってるじゃないか。それともあの歌が何か特別だとか?」
「......いえ、特にそういうわけじゃないんですけど......」
「オレはただ、綺麗な歌だね、って言いたかっただけなんだけど」
「............」

ミルフィーユは顔を赤らめるが、さすがにもう暴れる力は残っていないらしい。
恥ずかし そうにうつむくだけだった。
しばし互いに口をつぐんだまま、黙々と部屋を片付ける。

「......あの歌......」

どれくらい経ってからか、ミルフィーユが独り言のように呟いた。

「賛美歌なんです」
「へえ」

顔を上げて彼女に振り返る。
彼女は手を休めることなく、顔を合わせないままで続ける。

「アメージング・グレイスっていいます。ずーっと昔の、ロストテクノロジーよりもっと 昔から伝わる賛美歌なんだって、おばあちゃんから教えてもらいました」
「そうなんだ」

そういえば、彼女の家族について聞いたのは初めてのような気がする。
背を向けている彼女の表情は伺えないが、その声には多分な懐古と一抹の寂寥が込められているような気がした。
タクトはしばし迷うが、思い切って言ってみた。

「教えてくれないかな」
「え?」

ようやくミルフィーユはこちらを振り向く。
その顔に驚きの彩りを添えて。

「いや、ほら、俺達ってこんな生活だしさ。賛美歌なんて久しぶりで癒されるって言う か......。オレも、たまに口ずさんで歌える ような、そんな歌が欲しいかなって......」

歓迎とも非難ともつかぬ目で見つめられ、急に居心地の悪さを感じたタクトは、曖昧に目をそらす。

「いや、もちろん無理にとは言わないけど......」

尻すぼみにつけくわえて、口をつぐむ。
やはり軽率だっただろうか。
何か特別な思い入れがあるらしき歌を、簡単に教えてくれだなんて。
無遠慮な男だと思われただろうか。
あのミルフィーユを相手に、こんな複雑な事を考えている自分に驚きつつ、タクトが自分 の言葉を後悔し始めたその時だった。

「......いいですよ」

快い返事にホッとして、彼女に笑いかけようとする。
そしてタクトは驚いた。
ミルフィーユは、笑っていた。
ただし、いつものように無邪気で天真爛漫な笑顔ではなく――――。





奥ゆかしく。たおやかな。
慈母のように深い情念の込められた、不思議な微笑みだったから。