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        第4章    ―――― いと慈しみ深き ――――

「ああ......マイハニー、愛しの君よ。キミは何て美しいんだ」

うっとりと酔いしれた声が、通信から伝わってくるのである。

このテの声、男が出すと、相当に気色悪い。

しかもタチが悪い事に、そういう男に限って、自覚というものが無い。

「星屑の光を浴び、広い宇宙を自由自在に舞い踊るキミ......かつて飛将軍を魅了

したという舞姫のそれでさえ、キミには遠く及ぶ

まい。ボクの瞳は、もはやキミ以外の何をも映さない。ボクの心は、もはやキミの虜だ。

キミの一挙がボクの心をかき乱し、キミの

一投足がボクの心を狂わせる......」

ドビュン!

「勝手にとっとと狂っちゃえばっ!」

ミルフィーユは怒声と共に狙い澄ました一撃を放つが、さも当然のようにフラリとかわさ

れる。

語調が荒くなってしまうのは、この陶酔しきった声に、さっきから背中がムズムズして

しょうがないからだ。

「ああ! 素晴らしいよハニー、何と洗練された精密な射撃なんだ! まるでキミの吐息

が、ボクの肌を撫でて行ったかのようだ!

ああ、たまらない、もうたまらない! ああっ、アア〜〜〜ッ!」

敵――――カミュ・O・ラフロイグは感極まったように、切羽詰った歓喜の悲鳴を上げ

る。

このテの声、男が出すと、狂暴に気色悪い。

ぞぞぞぞっ

ミルフィーユは氷の塊でも飲み込んだかのように全身の毛を逆立て......。

「......ふぇ......ふええええぇぇぇん! もうやだぁ! 助けてタクトさ

〜ん!」

泣き出してしまった。

どちらかと言えば、優勢だったのは彼女の方だったのだが、ぜんぜん戦闘と関係の無いこ

とで形勢逆転されてしまった。

モニターで一部始終を見ていたタクトは、あまりの展開に艦長席で頭を抱えていた。

「どうしたんだい、ハニー? さあ、涙を拭いてボクと踊ろう。美しい調べに身をゆだ

ね、心を重ねて共に舞おう。銀河の星々

が見とれるほどに。愛の女神が羨むほどに......」

「やだぁ、こっち来ないで! あっち行って! お願い! お願いしますっ! ごめんな

さいっ!」

敵にお願いしてどうするのか。そして何を謝っているのか。

どうやらミルフィーユは相当なパニック状態に陥っているらしい。

「ふ......愛しいハニー。キミのためなら死ねる......」

「タクトさん、タクトさん! 助けて! やだやだ〜!」

タクトは溜め息をついた。

とはいえ、未知の恐怖で幼児退行してしまった彼女を放っておくわけにもいかない。

何より、隣に立つレスターが、さっきから『どーでもいいから何とかしろ』と呆れ果てた

目で無言の圧力をかけてきているのだ。

渋々、通信に命じて回線を開く。

「あ〜、敵のパイロット。カミュ......君だっけ。女の子が嫌がることして喜ぶな

んて、感心できないな」

「ん......? ああ、ミルフィーをかどわかす、例の醜男クンだね。気安くボクの

名前を呼ばないでもらえるかな」

その後、しばらく紳士的な対話(皮肉の応酬とも言う)で時間を稼ぎ、その間にミル

フィーユが立ち直ることによって、その場

は事無き(?)を得るのだった......。

「ごめんなさい」

戦闘終了後、出迎えに来ていたタクトに、ミルフィーユは開口一番、そう言って頭を下げ

た。

「いや、まあ、あれは相手が悪かったって言うか、相手がちょっと特殊だったから。とに

かくみんな無事だったんだから、それで

良いんじゃないかな」

タクトは笑って励ましてやるが、やはり気にしているのか、ミルフィーユの表情は晴れな

い。

「仮にも戦闘中です、戦闘中に取り乱すなんて......それでやられちゃってた

ら......」

「ん〜......そりゃそうなんだけどさ。まあ、結果オーライってことで」

 

なまじ彼女の言う事が正論なもので、ろくな励ましが思いつかない。

タクトは曖昧な言葉でお茶を濁し、彼女の肩を叩いて早々に切り上げようと促した。

しかし、その時だった。

「へっ......結果オーライ、ね」

 

背後から聞こえよがしな、多分に皮肉のこもった呟きが聞こえた。

振り返ると、整備班の親方が尊大に腕を組み、言葉どおりの薄笑いを浮かべてこちらを見

ていた。

「......何か......?」

あからさまなその態度に、タクトは真顔になって静かに問う。

親方は口の端を上げたまま、飄々と首を振るだけ。

「言いたい事があるのなら、聞くが?」

「いーえ、何もございませんよ、艦長どの?」

「......とてもそうは見えないんだがな。知ってるとは思うが、紋章機の性能はパ

イロットのテンションに直結している。いたずら

にパイロットを惑わすような言動は、控えて欲しいんだが」

「タ、タクトさん......」

不穏な空気を感じ取ったのか、ミルフィーユが不安げにタクトの袖を引っ張る。

タクトはそれを抑えて、改めて親方に正対する。

「......へへ......いたずらに。いたずらに、と来たか。そんじゃ、ちょ

こっとだけ言わせてもらうとするかな。いや、本当に大し

た事じゃねぇんですがね」

親方はそう前置きして、タクトを正面から見据えた。その顔は相変わらず薄笑いを浮かべ

ていたが、目だけが笑っていなかった。

「ただ、羨ましいもんだと思っただけでさぁ」

「............」

「俺達の仕事には、整備には、結果オーライなんざ間違っても許されねえ。俺達が手を抜

けば、それだけでパイロットの命が危なく

なる。整備には人の命がかかってるんだ。だから、俺達メカニックは、いつも死に物狂い

で紋章機の整備に取り組んでる。何徹しよ

うが、何食抜こうが......どれだけ眠かろうが、どれだけ腹減ろうが、バーナーの

火加減一つにまで気を配って、歯ぁギリギリ食い

しばって、限界まで緊張して紋章機を修理してんだ」

「............」

「整備中にちょっとでも気を抜いた奴ぁ、そりゃひでぇ目にあう。眠気に負けてコクリと

でもしてみろ、半殺しだ。俺ぁそいつを、

仕事が続けられなくなる寸前までぶん殴る。俺も若ぇ頃は、毎日のようにボコられてたも

んさ。そう......艦長さん、あんたくれぇ

の頃はな」

「............」

「ここにいる若ぇ連中も、俺から同じ目にあってる。疲れてんのは分かってんだよ。腹

へって力が出ねえのも分かってんだよ。それ

でも俺は容赦しねえ。なんでだか分かるか? ......それが、プロの仕事ってもん

だからだ。うちの連中はよくやってるよ、体中に

青あざこしらえて、言いたい事もあるだろうにグッとこらえて、コクピットの掃除まで

やって。......可愛くねぇわけがねぇ。整備

が終わった後、その辺のコンクリートの上で、死んだみてぇに眠るあいつらが可愛くねぇ

わけがねぇ」

親方はそこで、グッと唇を噛んだ。

「それを......」

燃えるような憎悪の目で、2人を睨みつける。

「俺と、俺の連中が、死ぬ思いで仕上げた紋章機で......」

ギリ、と奥歯の鳴る音が、2人の耳にまで聞こえてきた。

「アホみてえな鬼ごっこやった挙句に、結果オーライだとぉ!?」

2人にまっすぐ指をつきつけ、吠える。

「ふざけんじゃねえっっっ!!!」

大音声が、格納庫狭しと響き渡った。

その場に居合わせた全ての者が、一瞬、動きを止める。

シン、と奇妙な静寂の間があった。

やがて親方は、何事も無かったかのように、最初の皮肉たっぷりな笑みを浮かべて仰々し

く口を開く。

「ま、俺が言いてぇのはこんくらいのもので。頭の隅っこにでも覚えててもらえると有難

いんですがね、艦長どの」

「............覚えておこう」

タクトは、それだけを返した。

言いたいことはあった。

だが、それを言うべき時ではないとタクトは考えた。少なくとも、今は。

何よりも、隣のミルフィーユが、すっかり縮こまってしまっている。

ひとまずこの場を離れる事が先決だと判断したのだ。

「ミルフィー、行こう」

彼女を促し、立ち去ろうとする。

が、それを親方が呼び止めた。

「ああ、ちょっと待てよ、嬢ちゃん」

言うまでもなく、ミルフィーユのことだ。

「はい......?」

恐々として振り返るミルフィーユ。

親方は彼女に、世間話でもするかのような軽い口調で言った。

「お前さぁ、いつも格納庫に生ゴミ捨てていくの、やめてくれねぇか」

「えっ......?」

ミルフィーユも、そしてタクトも、相手が何を言っているのか一瞬理解できなかった。

そんな2人を見やりながら、親方は自分の背後を指す。

そちらに目を向け――――絶句する。

若い整備員が、ゴミ出しに行こうとしていた。彼が背中に担いだ透明のゴミ袋の中。今回

の出撃前にミルフィーユが配った

お菓子が、箱に入ったまま手付かずで捨てられていた。

「差し入れは嬉しいんだが、さっきも言った通り、俺達にゃ食ってるヒマなんて無えわ

け。もらってもゴミにしかなんねー

んだな、これが。ゴミ当番の奴が苦労するだけだから、やめてくんねーか」

親方は勝ち誇ったようにそう言い、ニタリと笑う。

タクトは信じられなかった。

人の誠意を、それと承知しながら、ここまであからさまに無下にできる人間が実在するな

ど、信じられなかった。

「き――――」

理性が歯止めをかける間も無かった。

次の瞬間には、怒りが沸点を超えていた。

「貴様アアアアァァァッ!!!」

食うヒマがない!? 見え透いた嘘を! さっきの貴様の話には、確かに筋があった。し

かし、殊勝に聞いたオレがバカだっ

た! 疲れているのが、苦しんでいるのが、自分達だけだとでも思っているのか! 彼女

がただの暇つぶしや酔狂で、貴様ら

にその菓子を配っているとでも思っているのか! 自分達の技術だけが尊いとでも思って

いるのか! 彼女が料理という技術

にどれほどの思いを抱いているのか、考えた事があるのか! 自分達が何をしているのか

分かっているのか! 外道どもが!

人でなしどもが! 許さんぞ、許さんぞ、よくも、よく

も............っ!!!

がしっ

心の中で先ほど飲み込んだ言葉をぶちまけつつ、親方に殴りかかろうとしたタクトだった

が、背後から服を引っ張られた。

振り返ると、ミルフィーユが必死の形相で、両手で服の裾を掴んでいた。

「タクトさんダメです! 悪いのは私ですっ!」

「ミルフィー!? 何をバカな! 悪いのはどう見たって......!」

「私なんです! どう見たって私じゃないですか!」

「な、何を......!?」

戸惑うタクト。

最初の勢いを失って失速した彼は、そのままミルフィーユに強引に引き戻された。

彼女は前に立ち――――親方に向かって、殊勝に頭を下げた。

「ごめんなさい、ご迷惑になってるとは思っていなかったもので」

親方は一瞬、戸惑った顔をするが。

すぐにまた、尊大に腕を組んで肯く。

「まあ、そういうこった」

「でももしも、何か食べたくなったら言ってくださいね。こう見えても私、お料理だけは

得意なんです。お菓子だけじゃなく

て、揚げ物煮物、何でもござれです。きっと、喜んでもらえると思いますので」

「ん......そうか? ふん、気が向いたらな」

「はい、お待ちしてます」

ミルフィーユは、あろうことか、愛想良く笑って丁寧にお辞儀までする。

そして愕然としているタクトのもとまで戻って来ると、彼の腕を取って歩き出した。

「さ、行きましょう、タクトさん」

「あ、ああ......」

訳が分からぬまま、手を引かれるまま。

タクトはミルフィーユに連れられて、格納庫を後にした。

格納庫を出て最初の角を曲がったところで、ミルフィーユはようやく立ち止まり、タクト

の手を放した。

「あー、びっくりした」

「ミルフィー......」

胸に手を当ててホッと息をはく彼女に、タクトは口を開きかけた。

どうして止めたんだ、と。

あんな理不尽なことをされて腹が立たないのか、あんな人でなしにまで笑いかけるなん

て、何を考えているんだ、と。

そう、言い募ろうとした。

だか彼が口を開くよりも早く、ミルフィーユが顔を上げて言った。

「もう、ダメですよタクトさん、ケンカなんかしちゃ」

まるで幼児を叱るような口ぶりで、人差し指なぞ立てて、そうのたまう。

「いや、だってあれは」

「ええ、分かってます。タクトさん、私のために怒ってくれたんですよね。それについて

は、ありがとうございます」

でも、と首を振って、続ける。

「でも、ケンカはダメです。あれは私の方が悪かったんですから」

「そんなバカな!」

タクトは叫んだ。

「ミルフィーが何をしたって言うんだ。連中が大変だからって、差し入れを作って持って

行っただけじゃないか! あいつらを

気遣っての厚意だったじゃないか! それを、あいつは......!」

「ええ、そこです」

息巻くタクトと対照的に、ミルフィーユは静かに、しかし強い口調でタクトの言葉を遮

る。

「いいですか、タクトさん」

そしてタクトを真っ直ぐ見上げて、言った。

「厚意っていうのは、元々そういうものなんです。良かれと思ってやった事でも、喜んで

もらえるとは限りません。逆に、相手

の気に障って不愉快にさせちゃうことだって、当然あるんです。でもですね、それで相手

を恨むのは筋違いです。誤解されるの

が嫌だったら、始めからどうこうしてあげようなんて、思うべきじゃないんです。相手が

感謝してくれるのを前提に何かしてあ

げるなんて、そんなの本当の厚意じゃありません」

「ミルフィー......」

間違ってる、とタクトは思った。何かが間違ってる、と。

感情的にそう思った。どうあっても、彼女が悪いなどと認めたくはなかった。

しかし、彼女の言う事のどこに間違いがあるのかが分からなかった。反論できなかった。

何より彼女自身がそう思っている以上、自分が何を言っても始まらない。

ミルフィーユはタクトに向かって、『ね?』と同意を求めるように軽く首を傾げて見せ

る。

タクトは――――苦笑し、肯き返すしかなかった。

「強いんだな......ミルフィーは」

お世辞でも皮肉でもなく、本当に強いと思った。

ミルフィーユはニッコリして、首を横に振る。

「そんなことないです。偉そうなこと言いましたけど、本当は私だってちょっとムッとし

てたんです。でも、タクトさんが代わ

りに怒ってくれましたから。......嬉しかったです、本当に」

決して恨み言を言わず。ただ自省にのみ努め。そしてタクトをも労わるように、優しく微

笑む。

「でも、ケンカなんてやめてくださいね。タクトさんは、もっと優しい人のはずです。誰

かをグーで殴っちゃうなんて、タクト

さんらしくありません」

「ミルフィー......」

「それにタクトさんは、私達の艦長さんなんですよ? ケンカなんかして、ケガでもした

ら私達は......エルシオールは、どう

なるんです?」

屈託の無い笑顔だった。彼女は言いながら、タクトの右手を取る。

タクトはその時になって初めて、自分が拳を握り締めていた事に気がついた。

「だから......」

ミルフィーユは優しくその拳を解き、そっと自分の両手を重ねて包み込んだ。

「お願いですから、ご自愛くださいね」

――――胸が熱くなった。

この、ミルフィーユという少女は。

何という優しい心の持ち主なのだろう。

タクトは感動すら覚えていた。

重ねられた手から伝わる温もり。

4つも年下であるはずの彼女が、彼にはこの時、自分よりもずっと年上であるかのように

感じられた。

何も言い返せなかった。

言い返す言葉など、思いもよらなかった。

「......ああ......分かったよ。悪かった」

タクトは素直に詫びた。

彼女に対してなら、どこまでも素直になれそうな気がした。

「もう、ケンカはしませんか?」

「しないよ」

「私と、約束できますか?」

「できるさ。約束する」

「じゃあ、指切りしましょう」

「いいとも」

普段なら、気恥ずかしさが先立って渋っただろう。

しかしこの時ばかりは、むしろ自分から望むように小指を差し出し、彼女の細い小指と絡

めた。

  ゆ〜びき〜りげ〜んま〜ん、う〜そつ〜いた〜ら......』

声を合わせて、調子はずれな歌を歌う。

それは、気恥ずかしくなるほど幼稚な、誓いの儀式。

しかし、方法など問題ではない。

この、尊敬さえすべき少女と約束を交わせたこと――――タクトの胸は、嬉しさと誇らし

さで満たされていた。

ミルフィーユを部屋まで送った後、タクトはブリッジへ戻る事にした。

足取りが軽い。心が不思議と高揚している。

さきほどあんなに不愉快な怒りにかられたというのに、すっかり癒され、なお余りあるほ

どに気力が充実していた。

すべてミルフィーのおかげだ、と思った。

彼女がそばに居てくれることを、この上なく嬉しく思う。

たったいま別れたばかりなのに、もう彼女の顔が見たい衝動がこみ上げてくる。

変だな。

確かにオレは自他共に認める女好きだけど、こんな気分は初めてだ。

「......んん〜......」

ダメだ。心が浮かれてどうしようもない。

こんな時、人は歌を歌いたくなるものなんだな......。

タクトは妙な感慨を抱きつつ、頭の中で歌を選曲した。

選ぶまでもなかった。

口をついて出てきたのは、他ならぬ彼女に教えてもらった歌だった。

  アメージング・グレイス、ハゥスウィート、ザ・サウンド......」

こんな天下の往来で、とも思うが、むしろ構うものか、という思いの方が強かった。

だってしょうがないじゃないか、こんなに嬉しいんだから。

タクトは歓びに突き上げられるまま、朗々と歌っていた。

その時だった。

ガシャ−ン

不意に背後で、ガラスの割れる音がした。

何だ、と思って振り返ると、よく見知った女性が立っていた。

ランファだった。

その足元には紙袋が落ちており、グッショリと床をぬらしていた。たぶん中身は化粧品の

ビンか何かだったのだろう、それを

取り落として、中身が割れたのだ。

「ランファ......?」

そしてタクトは、彼女の様子がおかしい事に気が付いた。

紙袋を落とした事になど、化粧品が割れてしまった事になど、気付いてもいない様子で呆

然とこちらを見つめている。

その顔にあるのは、驚愕と畏れ。

まるで幽霊にでも出くわしたかのように、蒼白となっていた。

タクトの方も、彼女が何を驚いているのか理解できず、困惑してかける言葉も無く見つめ

返してしまう。

奇妙な沈黙。

「......アンタ......」

やがて彼女は、かすれる声で呟いた。

「アンタ......その歌......なんで......?」

「?」

一瞬、意味が分からなかった。

「その歌......どこで......?」

「ああ、これ? アメージング・グレイスっていう賛美歌なんだ。いい歌だろ? ミル

フィーに教えてもらったんだ」

軽い調子で答える。

しかしそれを聞いたランファは鋭く息を呑み、ハッキリそれと分かるほどに身を震わせ

た。

「あの子が歌ってたの!? その歌を! いつ!?」

弾かれたようにタクトに詰め寄り、胸倉を掴んで締め上げる。

「いつ!? どこで!? 言いなさいっ!!」

「ラ、ランファ......? 苦し......」

物凄い剣幕だった。本気で絞め殺されるかと思うほどの。

だが、寸前で彼女は少しだけ我に返ったらしい。

小さく舌打ちし、キョロキョロと左右を見回す。そして、

「ちょっとこっち来て」

半ば引きずるようにして、タクトの手を引いて走り出した。

タクトは訳も分からぬまま、彼女に連れられて行くのだった。

そう言えば以前、彼女の経歴についての報告書を読んだことがあった。

士官学校での成績。彼女がいまだにこだわる、『次席卒業』。

彼女はその原因をミルフィーユの強運のせいだと言い張っているが、本当のところはそう

ではない。

2人は成績では、ほぼ拮抗していた。いや、実のところはランファの方が僅かに上でさえ

あった。

にも関わらずランファが首席となれなかったのは、実は彼女自身が在学中に起こした1つ

の不祥事が原因なのだ。

『1学年次において暴力事案  被害者3名、骨折により入院  全治3ヶ月』

――――しかし、タクトは調査書に記載されていたこの事を忘れていた。

    そう、この時までは。

連れられた先は、彼女の部屋だった。

もっと別の機会に招かれたのなら嬉しいところなのだが、しかし今はとても喜んでいられ

る雰囲気ではなかった。

部屋に入ると椅子に座らされた。

まずはお茶でも一服、ということもなく、テーブルを挟んで向かいに座った彼女は

「さぁ、話して。いつ、どこであの子が歌ってたのか」

取調室の尋問といった様子で、話を迫ってきた。

困惑しながらもタクトは説明する。

ミルフィーユの部屋を通りかかった時に、ドアが開いていて偶然歌を聴いたこと。

綺麗な歌だと思ったので、教えてもらったこと。

ヴァニラに聞いた、歌詞の意味。

ランファは黙って話を聞いていた。

ミルフィーユのことを話しているうちに、タクトの心にまた嬉しい気持ちがこみ上げてき

ていた。

彼は他にも、関係の薄いことまで話して聞かせる。

ミルフィーユがいかに、素晴らしい心の持ち主であるか。

料理という技術に対して、彼女がいかに真摯であるか。

果ては先ほど格納庫で起こった、親方との事の顛末まで話していた。

「オレは反省したよ。一番傷ついているはずのミルフィーが、あんなに謙虚に自分を戒め

ているってのに、オレは子供みたい

に感情に任せて殴りかかろうとしてたんだから」

「そう......」

ランファは力無い声で相づちを打ち、深い溜め息をついた。

「ランファ......?」

「............」

「あ、ゴメン。なんかオレ、関係無いことまでしゃべっちゃって」

「ううん......それはいいのよ。アンタもあの子を大切に思ってるんだってことが

分かっただけでも、救われるから......」

言いつつも、ランファはまた深い溜め息をつく。

冗談で済まされない深刻な様子に、タクトもさすがに口をつぐんだ。

しばしの沈黙の後、彼女は気だるげに顔を上げ、わずかに微笑みながらタクトに言う。

「あの子、そんなこと言ったんだ。感謝なんて、されなくて構わないって」

「感謝されるのを前提に何かしてあげるなんて、本当の厚意じゃない、って」

「そう......。あの子、笑ってたでしょう。ぜんぜん平気な顔して、いつもみたい

にニコニコ笑ってたでしょう」

「ああ。まったく、本当に強いと思うよ。オレじゃとても、ああは――――」

惚れ惚れとしながら答えるタクト。

そこでランファは、急に、冷め切った声で尋ねてきた。

「......で、あんた、それを信じた?」

「..................え?」

一瞬、時間が止まったような気がした。

ランファは顔に薄い笑みを貼り付けたまま、しかし震える声でもう一度尋ねる。

「だから、心を込めて作ったお菓子を足蹴にされて。あまつさえ口汚い言葉で罵られて。

それでも何一つ気にせずに

お気楽に笑ってる......本当にそんな事が、ありうると思う?」

「............」

沈黙。

背筋を冷たいものが撫でて行った。

確か、いつかもこんな感じを味わったことがあった。

あれはいつだったろう。どんな場面であったろう。

ああ、そうだ......ミントと話した時だ。

ミルフィーユがチーズケーキを作って持って行った時の事を、初めて知らされた時だ。

ん......ミント?

タクトはハッとなり、慌てて言った。

「で、でも、ミントも嘘は無いって......」

テレパスである彼女が、言ったのだ。

あの時もミルフィーユは相手を悪し様に思うことなく、ただ自省して、すでに次のことを

考えていた、と。

勢い込んでランファにそう告げるが。

それを聞いたランファは、さもありなんと納得顔でうなずくだけだった。

「そりゃそうよ。ミルフィーは相手への不平不満とか、そんなこと考えてないもの」

会話の流れに矛盾したようなことを、あっさりと言う。

タクトは黙り込むしかなかった。

「こんなこと言うと、ミントに悪いのかも知れないけど。あの子に関してだけは私、テレ

パスなんかよりずっと良く理解でき

る自信があるわ」

ランファは続ける。

「あの子は、自分ではそう思っていない。気付いていない。無意識のうちに、気付かない

ように自分で自分の心を仕向けてる」

「心を......仕向ける......」

「でも意識に登らないからって、無かった事にはならない。あの子は傷ついてる。怒って

る。泣いている......。やっかいなの

は、本人にその自覚が無いってこと」

「..................」

蘭花・フランボワーズ。

直情的で思い込みが激しいが、ゆえに人一倍義理堅い人情家。

士官学校での、ミルフィーユの同期。

――――この艦で、誰よりもミルフィーユのことを知っている、無二の親友。

「ねえ、あの子が泣いてるとこって見たことある?」

「......ああ、あるよ」

彼女の問いに、タクトはうなずいた。

いつだったか、ミルフィーユは自分がシヴァ皇子を傷つけてしまった、と泣いていたこと

があった。

わざとではないにしろ、シヴァ皇子の寝顔を盗み見て、そして寝言を聞いてしまった。そ

れがばれて。

踏み込んではいけない他人の領域に、土足で踏み込んでしまった、と。

あの泣き顔は、今でも忘れられない。

「あの子って泣く時は、ホント悲しそうな顔して泣くわよねー」

「そうだね」

だから――――。

そう続けるランファの言葉に、タクトは肯いていた。

何の疑いも持たず。100パーセント心から同意して。

ふと気付くと、ランファは無表情にタクトを見つめていた。

「............」

「ランファ?」

もう何度目か知れない、溜め息。

「そう......。やっぱりあんた、悲しそうな顔して泣くあの子しか見たこと無いの

ね」

「どういうこと?」

「その泣き顔なら安心よ。むしろ私の場合、その顔見たらホッとするわ。ああ、悲しいの

を溜め込まずに、ちゃんと吐き出して

るなって。本当にまずい時のあの子は......」

彼女は思い出すのも嫌だという様子で、静かに首を横に振りながら言った。

「何の感情も浮かんでないの。無表情で、ただ涙だけが流れてるの。......まるで

自分が泣いている事に、気付いてないみたい

に。『あんた、泣いてるわよ』って、教えてあげなきゃ分からないみたいに」

「..................」

そんな泣き顔など、タクトは聞いたことも見たことも無かった。

あのミルフィーユが、そんな泣き顔を?

にわかには信じ難い話だった。

笑いたかった。

冗談だろ? と笑いたかった。

しかしランファの顔は、それが紛れも無い事実であることを如実に表していた。

「いつか必ず、気付いてしまう。自分が溜め込んできた悲しみの深さに気付くときが、

きっと来る。その時にいくら悲しんでも、

怒っても、泣いても、溜まり込んだ悲しみは到底処理しきれない......」

予言者のように確たる口調で、彼女は言う。

それはおそらく、前例がある故の。

過去に一度、彼女が『そのミルフィーユ』を見たことがある故の確信。

「まずいわよ」

そして彼女は、焦燥を滲ませた目でタクトに告げる。

「あの子がその歌を歌ってたってことは、超A級の危険信号なんだから」

初めてあの歌を聞いたときのことが思い出された。

タクトが聞いていたことを知った時の、ミルフィーユのあの慌てぶり。

恥ずかしげだったあの仕草。

教えてくれと頼んだ時の、あの不思議な微笑み――――。

「......あの歌は、アメージング・グレイスは......ミルフィーにとっての

何なんだろう」

タクトは呟くように、ランファに尋ねた。

彼女は首を横に振る。

「知らないわ。私が知ってるのは、その歌を歌ってたその何日か後に、あの子は壊れ

ちゃった、って事実だけ」

「訊いた事は、無いのかい?」

「......怖くて訊けなかったわ」

「そうか......」

それを責める気にはとてもなれない。

自分だって、訊けないから。

「前にも、そんなことがあったんだね?」

「ええ。士官学校時代にね。あそこって大半が貴族のご子息ご令嬢でしょ? 私がやめと

けって言ってるのに、あの子はそん

なことない、きっとみんな仲良くできるはずだって言って。......今の状況と似た

ようなものよ」

タクトがランファの身上調査書に記載されていた事を思い出したのは、この時だった。

彼女を次席に引きずり下ろした、たった1度の不祥事。

「......ランファ、ひとつ訊いてもいいかな」

「なに?」

「気を悪くしないで聞いてくれ。君の経歴についての書類に書いてあったんだけど、君は

1年生の時に暴力事件を起こしてる。

あれって、もしかして――――」

「ストップ」

最後まで聞くことなく、彼女は手をかざしてタクトを制止した。

「私のことは、どうでもいいのよ」

「でも」

「たぶん、あんたが今考えている通りよ。それ以上の事は訊かないで」

「......そうか。ゴメン、変な事訊いて」

タクトは思わず微笑んでいた。

ミルフィーユのことは憂慮すべき事態ではあったが。

しかし彼女には、こんなにも頼もしい親友がいる。

いざとなれば我が身を顧みずにかばってくれる、稀なる友人がすぐ傍にいる。

「ミルフィーのこと、心配なんだね」

「今さら。いつものことじゃない。あの子が先走って、私が後始末に駆けずり回

る――――いつものことじゃない」

「でも、今回も取り越し苦労に終わればいいと思ってるんだろう?」

「当然よ。結果的にあの子が無事なら......それで充分」

「お人好し、ってよく言われない?」

「言われるし、自分でも損な性分だとは思うわ」

「士官学校時代も、あの一件さえ無ければ、首席は君のものだったかも知れないのにね」

冗談めかして言うと、ランファは複雑な顔をした。

「......あんたも、あの子のあの泣き顔を見れば、私の気持ちが分かるわよ」

言いながら、フラリと席を立つ。タクトに背を向けて戸棚へと歩きながら、背中越しに

言った。

「損な役回りだって事は分かってる。それでも、後始末役で構わない。私がこの子を守っ

てやるんだ......ってね」

「ランファ......」

慈しみ深い女性だ、と思った。

誰が好き好んで、ハズレと分かっているクジを引くだろう。

誰が好き好んで、日陰者になど甘んじるだろう。

それも何の打算も無く、すべてはその情の深いが故に。

背中を向けているのは......照れているのだろうか?

「ねえ、アンタ時間ある?」

「あるけど? 敵と遭遇してブリッジから呼び出されない限りは」

「あの子のことで、もうちょっと話さない? お茶ぐらい淹れてあげるから」

その言葉どおり、戸棚から茶器セットとポットを取り出す彼女。

断る道理は無かった。

ミルフィーユを1番良く知る彼女から話を聞ける、願ってもない事だ。

自分が役に立てる事が、見つかるかも知れない。

ミルフィーユが、あの笑顔が、それほど危険な状態だというのなら。

守ってやりたい。支えてやりたい。

タクトは決意も新たに、力強く肯くのだった。