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     第6章      ――――  Lucifer(堕天) ――――

――――後にレスターはこう語っている。

「エンジェル隊の中で一番素晴らしい機体は? と聞かれたら、俺は迷わずこう答えるだ

ろう。それは蘭花・フランボワーズの

カンフーファイターだ、と。あの時、俺は生まれて初めて、女が戦場に立つことを心から

認める気になった」

まさに、鬼神の如き戦い振りであった。

補給も、援護も、一切無しの文字通り孤立無援の状態で。

大型戦艦1隻を撃沈、同型艦を航行不能、という信じられない戦果を挙げて。

カンフーファイターはエネルギー切れにより機能を停止、行動不能となったところを撃墜

された。

残ったその戦艦は、怒り狂ったフォルテの猛撃を受けてあえなく撃沈、それで戦闘は終了

した。

緊急救命装置のおかげで一命はとりとめたものの。

ランファは未だに昏睡状態が続いている。

――――ミントはその瞬間のことを、こう証言している。

  「まるで、ラジオのスイッチを切ったときのようでした」

戦闘が終了し、エンジェル隊が帰艦を始めた頃に、ミルフィーユはようやく正気を取り戻

した。

が、彼女は戦闘の途中からのことを覚えていなかった。

帰艦したミントが事の経緯を説明し、それを聞いた彼女は顔を青ざめさせた。

やがてカンフーファイターが回収され、医務室へ運ばれるランファにミルフィーユは泣き

ながらすがりつき、何度も何度も、「ごめ

んなさい」を繰り返していた。

その時だった。

「救いようのねぇ野郎だな、おめえは」

ミルフィーユに近づいてきた、整備班の親方がこう言ったのだという。

「見てたぜ。おめえ一体、何しに出て行ったんだ? 泣きごと言ってただけじゃねえか。

艦長さんの作戦はメチャクチャにする。仲間

は殺しかける。おまけに戦いもせずに、紋章機だけは一人前に傷つけて来るんだからな、

こっちはたまんねぇぜ」

もしランファに意識があったならば、決して黙っていなかったであろう、容赦の無い辛ら

つな言葉。

そして。

「おめぇさ、いらねえよ。邪魔。お仲間も心ん中じゃ、そう思ってんじゃねえのか?」

この時だった。

その瞬間。

フォルテは猛然と親方に掴みかかっていて、気付かなかった。

ヴァニラはランファにナノマシンの治療を施すことで必死になっており、同じく気付かな

かった。

ランファは命すら危うい状態であり、論外だった。

そう。

その瞬間、ミルフィーユの異変に気付いたのは、ミントだけであった。

 ブツッ ―――――――――

ミントの耳には、それはラジオのスイッチを切った時のノイズ音に聞こえた。

そして、スイッチの切れたラジオのように。

ミルフィーユの心の声が、聞こえなくなった。

何も聞こえなかった。

人は眠っている時ですら、何らかの思念を発しているものなのに、本当に何も聞こえな

かった。

まるで、そこに立っていたミルフィーユという人間が、突然神隠しにあって消えてしまっ

たかのように。

「ミルフィー......さん......?」

こんなことはミントも生まれて初めてだった。存在を確かめるように、恐々として呼びか

ける。

返事は無かった。ただ、ミルフィーユは嘘のようにピタリと泣き止んで。

「............」

無言のまま、1人で格納庫を出て行った。

――――ヴァニラは読んでいた聖書の一節から、目を離すことが出来なかった。

『 神よ、この者が如何な罪を犯したというのか

  この者こそは凍てつく吹雪の中で、ただ一人、心に光を宿す者ではなかったか

  この者こそは貴方の御心に、唯一叶う者ではなかったか

  この者が望んだのは、あなたが万人に等しく約束すべき、ささやかな幸いのみだった

ではないか

  にも関わらず、この屠殺場の豚よりも残酷な仕打ちはどうしたことか

  見よ、毛布を奪われ、凍える身を震わせる様を

  見よ、靴を奪われ、長き茨の道に朱に染まった両足を

  見よ、すでに傷つき血を流すその胸に、なお刃突き立ちて傷口の抉られる様を

  神よ、あなたはこれ以上、この者から何を奪おうというのか

  全てを奪ってなお、この者に何を望むのか

  見よ、栄光を目前にしながら、この者はいま倒れゆく

  遅すぎた祝福に何の意味があろう

  神よ、私を傲慢と罵る、父なる神よ

  私はあなたを告発する

  この者を救う為、私は憤怒の炎をまといて、いま自らの意思で地に堕ちよう

  我が名はルシファー

  我は黎明の子、明けの明星

  天の王よりも輝ける、暗黒の者なり 』

「......絶対に、今のミルフィーさんを出撃させてはいけません。たとえ何があろ

うと、どんなことが起きようと、絶対に」

ランファの見舞いに医務室を訪れたタクトに、ヴァニラは今までになく強い口調で、そう

忠告してきた。

いきなりな言葉だったが、彼女の真剣な顔に、タクトは事の重大さを肌で感じ取った。

「出撃させると、どうなるんだい?」

「......悪魔が来ます。神に最も近い力を持った悪魔が......」

ひどく抽象的な言葉だった。

これを言ったのがヴァニラでなかったら、タクトは本気にしなかったであろう。

「ミルフィーは、どうなったんだい?」

「............」

長い、長い沈黙の後、彼女は顔をそむけるように後ろを向き、背中越しに答えた。

「ミルフィーさんは......堕ちたんです......」

戦闘後の処理に追われているうちに、夜も遅くなってしまった。

やることはまだまだあるが、一段落はついた。残りは明日にしよう。

そう決めるものの。

すぐに部屋へ帰って寝る気にもなれなかったタクトは、夜の散歩と洒落込むことにした。

外灯が白々と歩道を照らす。

夜の公園内を、タクトは1人、歩いていた。

見上げれば、天上には満天の星。そして街路樹の梢の上に浮かぶ、白き月。

星々は本物だが、月だけはホログラフである。本星出身の乗組員たちの希望で、夜空には

白き月を映し出すことにしているのだ。

夜も遅いせいか、しばらく歩いても誰にも出くわさなかった。

タクトはふと思い出し、小道へ分け入った。

確か、こっちだったはずだ。

行き先はミルフィーユに教えてもらった場所。

確かお花見の時だったはずだ。彼女に手を引かれ、連れてこられた、とっておきの場所。

ミルフィーユのことを思いながら、その場所を目指していた。

なので、まったく期待していなかったと言えば嘘になる。

だけど――――。

「本当にいるとは、思わなかったな......」

芝生の上に座る、小さな背中がそこにあった。

「ミルフィー」

呼びかけるが、返事が無い。タクトは横に回りこみ、様子をうかがう。

ミルフィーユは膝を抱えて座り、天上の月を見上げていた。

青白い月光が照らすその顔は――――息を呑むほど綺麗な、そして冷たい、無表情だっ

た。

  『 何の感情も浮かんでないの。無表情で、ただ涙だけが流れてるの。......

まるで自分が泣いている事に、

    気付いてないみたいに。「あんた、泣いてるわよ」って、教えてあげなきゃ分か

らないみたいに    』

ランファの言った通りだった。

月を見上げるその瞳から、静かにあふれ出る涙。頬を伝い、細い顎から滴となってポタポ

タと落ちている。

だけど恐らく、彼女はそれに気付いていない。知覚できていない。

タクトは何かとてつもない、信じられない程の、背信的なものを見たような気がしてい

た。

薪代わりに赤子を火にくべる聖者の像を見た方が、まだマシだった。

厭世気取りのナルシストが。下らない。と作者を嘲笑うことも出来ただろう。

悪魔と乱交にふける大勢の女が描かれた大罪の絵画を見た方が、まだマシだった。

欲求不満のフェミニストが。みっともない。と作者を嘲笑うことも出来ただろう。

ああ、本当に、どうしてこんな......。

ミルフィーユが、いなくなってしまった。

体はここにあっても、その心は空っぽだ。

タクトが魅かれてやまない、あの輝かしい笑顔をもつミルフィーユという少女が、いなく

なってしまった。

隣りに腰をおろし、何の反応も示さない彼女の横顔を見つめる。

そうすると、ほんの僅かだが彼女の口が動いていることに気が付いた。

「......っ......」

「ん? 何だい? ミルフィー」

あまりに小さく、あまりにスローモーだったため、タクトはそれと気付くのに時間が必要

だった。

ミルフィーユは歌を歌っていた。

ぜんまいの切れかかったオルゴールのように、ゆっくりと。

今にも途切れそうな、か細い声で。

『アメージング・グレイス』を。

                Thr....    y   da....   oi.... an   ....es 

                     We..  ....av      al.....y    me....   

「苦難多かりし、我等が人生......」

僅かに聞き取れた部分を訳し、こみ上げてくるものをグッと堪える。

「本当だな、ミルフィー。どこまで行っても、つらい事ばかりだよな......」

自分の声が涙声になっていることに気付いた、そこが限界だった。

タクトは寝たふりをするように膝に顔を埋め、腕で覆い隠す。

たまらなかった。どうしようもなかった。

同情など、彼女に対する侮辱だろうか。

たぶんそうなんだろう。

だけどそう思ってみても、やっぱり彼女がかわいそうだった。

胸が、潰れそうだった。

「タクトさん」

不意に、名を呼ばれた。

タクトは慌てて顔を上げる。

ミルフィーユの声。聞きたくてたまらなかった声。

「どうしたんですか」

彼女は歌うのをやめ、こちらを見つめていた。

しかし、そこにタクトが望んだ彼女はいない。

「かなしいことがあったんですか」

相変わらず冷たい表情のまま。

それでも彼女は、他人に向かってこう言うのだ。

「かわいそう」

自分はこんなになってまで。

「ミルフィー......!」

衝動的に、体が動いた。

自分が何をしたのか、最初、自分でも分からなかった。

「いたいです」

その声で我に返る。

最初に気付いたのは、ほのかに香る優しい香り。

眼前に、月光に照らされる淡い桜色の髪が流れていた。

そして、腕の中にある温もり。

いつの間にかタクトは、ミルフィーユを力任せに抱きしめていた。

「悪い......」

腕の力を抜き、抱えなおす。

だけど、放す気は無かった。

思いがけず腕の中にしたぬくもりは、思いがけず心地よかった。放したくなかった。

ミルフィーユもそれ以上の不満は無いのか、快適になったと言わんばかりに、気持ちよさ

そうにタクトの胸に頭をこすりつける。

「何がご自愛くださいね、だよ......自分の事は棚に上げて......」

そのままの姿勢で、タクトは独り言のように語りかける。

抱きしめて、初めて気が付いた。その体の細さに。

なんて華奢な体なのだろう。翼の無い天使の体は、こんなにも小さいのか。

「ミルフィーこそ、もっと自分を大切にしてくれよ」

「わたしはへいきです」

抑揚の無い声で答えるミルフィーユ。

「元気だけがとりえだから」

「元気じゃないじゃないか。ミルフィー、鏡で自分の顔を見てみろよ」

「............」

腕の中で、ミルフィーユは顔を上げてタクトを見上げてくる。

「タクトさん......わたし、まだ笑えてますか......?」

氷のように冷えきった無表情のまま、そう尋ねてくるのである。

タクトは無言で首を横に振る。

彼女は自分で自分の顔をぺたぺた触り、

「どうですか?」

笑っているつもりなのだ、自分では。

「がんばらないと。わたし、笑わないと」

「無理して笑うことないじゃないか。辛かったら、辛いって言えばいい」

「だめです。つらいときこそ笑顔」

断言。

タクトにも分かっていた。それが彼女の矜持なのだ。

そんな彼女だからこそ、自分はこんなにも魅かれたのだから。

「わたし、笑ってなきゃ。せっかくみんなが守ってくれているのに、わたしが笑ってない

と」

自分の顔をつまんだり、引っ張ったり。

何度も、何度も。

まるで、事故に遭って翼を無くしたにも関わらず。

それを理解できず、無い翼を振って飛ぼうとする鳥のように。

やっぱり、気付いてたんだな......。

タクトは無情の思いだった。

ミルフィーユには分かっていたのだ、皆に頼られていることに。自分がエンジェル隊の中

で、最後の1人となっていることに。

自分が潰れるわけにはいかない。

その一心で。

「無理だよ」

思い余ったタクトは、艦長らしからぬ言葉を口にした。

「いいじゃないか、整備班の奴らと仲良くできなくたって」

ふるふる、と首を振るミルフィーユ。

「でも、奴らの方に、仲良くする気が無いんだよ?」

「しってます」

「無駄な努力なんだよ、ミルフィー。君のやっていることは、まるっきり無駄なことなん

だ」

「しってます」

首振り人形のようにうなずき、さらに、事も無げに言う。

「かげで花頭(バカ)とか、白雉女とか言われてるのもしってます」

彼女はバカでも白雉でもない。

陰でそう言われる事が、何を意味するのか。

彼等が自分に対してどういう感情を持っているのか。

それを正しく理解できる。

「......そこまで分かってるのに、どうして......」

「だって、とちゅうであきらめちゃったら」

タクトの疑問に、ミルフィーユはこう答えた。

「それまでがんばってきた自分がかわいそうです」

「............」

タクトには返す言葉が見つからなかった。

ミルフィーユは、ずっとこうして。

自分で自分を励まし、自分で自分を慰めてきたのだろうか。

それは、今まで周りに励ましてくれる人が、慰めてくれる人がいなかったことを意味す

る。

ミルフィーユはいったい、どんな人生を送ってきたのだろうか?

エンジェル隊に入隊する前は、いや士官学校でランファと出会う前の彼女は、どんな境遇

に身を置いていたのだろうか?

ガガ......ガ......

天井で、妙な音がした。

と、思ったら、いきなり雨が降り出した。

「またか......」

タクトは忌々しげに空を見上げて悪態をついた。

ピクニックに行った時の二の舞だ。

「ミルフィー、またスプリンクラーが故障したらしい。急いで出ないとズブ濡れ

そう呼びかける。

が、ミルフィーユは全然慌てた素振りもなく。

ゆったりとタクトの胸に顔を埋め、服をギュッと掴んできた。

「わたしはへいき」

「平気って、こんなに雨が......」

「しんぱいしないでください」

「ミルフィー?」

「わたし、つよい子だから」

雨のことを言っているのではないと、気付いた。

サアアアアァァァ......

スプリンクラーの水が、霧雨となって2人に降りかかる。

「............」

タクトは無言で、マントを外してミルフィーユに被せてやる。

気休めにもならないが、雨に濡れる彼女に、何かをしてやりたかった。

桜色の髪が水滴をまとう。

満天の星空から雨が降る。

「しんぱいしないで」

繰り返す彼女。

「......もうしばらく、ここに居ようか......」

タクトは優しくミルフィーユを抱え直す。

2人は意味も無く雨に濡れながら、それでも互いに温もりを分かち合っていた――――。